硫黄島 栗林忠道大将の戦い

栗林忠道。この人物の名前をご存じだろうか?
いや、恐らく硫黄島という島がどこのあるかもよく分からない日本人は多いのではないだろうか。

2006年 クリント・イーストウッド監督が製作した映画「硫黄島からの手紙」によってある程度は日本人に知れ渡るようになったかもしれない。
東京都小笠原郡硫黄島。れっきとした東京都内である。小笠原諸島の父島から270kmほど南西に位置する。
面積約22平方キロメートル、周囲約22kmに過ぎない小さな島で、1945年の2月から3月にかけて日米両軍が血みどろの死闘を繰り広げた。
日米合わせておよそ5万人の戦死傷者が出ている。そしてこの戦いのおかげで現在の日本があるといっても過言ではない。
この硫黄島の戦いで日本軍の指揮を執ったのが、栗林忠道大将である。

当時は大東亜戦争末期であり、すでにグアムもサイパンテニアンも米国に占領されていた。
米国としては日本本土にさらに近い硫黄島も占領して、日本本土への攻撃の拠点にしようとしていた。
そのため、日本としてはこの硫黄島を何としても守り抜かなければならなかった。

しかし、この頃には日米の軍事力の差は大きく開いており、まともに戦っても勝ち目はない状況だった。
そこで栗林大将は、独創的な発想で島に地下壕を堀り、そこから地上の米軍を撃つという作戦をとった。
これは当時の陸軍としては画期的な戦法であった。
栗林大将は部下からの信頼が非常に厚かった。全員が対象の命令に忠実に従ったのは、兵隊と同じものを食べ、同じように苦しみ、
「予は常に諸氏の先頭に在り」と兵隊の士気を上げ、合理的かつ効率的に戦闘準備を進めたからである。
当時の日本軍は、刀を抜いて突進する「バンザイ攻撃」をよく行ったが、それを戒め、地下陣地に隠れて敵が来るのを待ち、一人でも多くの敵を倒せと命令した。有名な「一人十殺」である。
戦後、この栗林大将の教えが書かれた紙片が硫黄島のあらゆる場所で発見されている。

将兵挙げての血のにじむような辛苦の結果、米軍上陸までの僅か数か月で全長18.5kmに及ぶ迷路のような地下道を完成させた。
水や食料、資材や機材など全ての補給が絶たれた状態で、これだけのものを造り上げたのは奇跡的なことであった。

1945年2月19日 米軍が島の南海岸に上陸した。日本軍は水際攻撃は行わず、地下壕から米軍に向けて砲弾や銃弾を撃ちまくった。
意表をつかれた米軍は上陸当日、死者548名、負傷者1755名、行方不明者18名を出した。
その後も米軍の損害は増すばかりだった。5日で簡単に落とせると思っていた硫黄島がいつ占領できるか全くわからなくなった。
しかし、圧倒的な物資及び兵数の差は、いかんともしがたく、3月26日、日本守備隊は最後の総攻撃を仕掛け、壮絶な死を遂げた。

結局硫黄島では36日間の死闘を繰り広げ、アメリカをもってして「勝者なき死闘」と嘆ぜしめるほどの大激戦であった。
日本軍の戦死者 19900人、戦傷者1033人。
米軍の戦死者 6821人、戦傷者21865人。
戦死傷者の合計は米軍が日本軍を上回った。大東亜戦争島嶼戦において米軍の損害が日本軍より大きかったのは唯一硫黄島の戦いのみであった。
これだけの戦力差があったにもかかわらずこれは奇跡であった。

硫黄島の戦いで日本軍が余りにも強いのを見てアメリカは、こんな強い国と戦争するのはもう御免だと考えた。
その後、九州に進行する計画もあったのだが、こんな小さい島で3万人近い戦死傷者が出たのだから、内地に侵攻したら少なくとも260万人は殺されるだろう。アメリカはそう計算した。その為米軍は本土には上陸しなかった。
硫黄島は結局玉砕したのだが、日本にとってその戦果は非常に大きい。何故ならこの戦いをもってして本土決戦をせずに済み、戦後の日本に圧倒的に有利な安全保障条約を結び、高度成長の繁栄を招いたからだ。

ポツダム宣言には次のように書いてある。
「我々は日本人を奴隷にするつもりもなければ、皆殺しにするつもりもない」
硫黄島の戦いがなかったら、インディアンの様に奴隷にされるか皆殺しにされていたかもしれない。
今の日本があるのは栗林大将をはじめとする、硫黄島で勇敢に戦った日本軍兵士たちのおかげである。
我々日本人はこのことを忘れてはならない。

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栗林忠道陸軍大将